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フォレストサイドハウスの住人達(その11)

[1] スレッドオーナー: 鶴岡次郎 :2015/05/14 (木) 14:43 ID:ftlgeY7A No.2689
佐原幸恵の失踪劇は6ケ月ほどで終わりました。佐原と幸恵の仲は以前よりまして親密になっています。
幸恵失踪劇が無事ハッピィエンドを迎えることができたのは佐王子保の力が大いに役に立っています。
幸恵は引き続き佐王子の店で働くことになり、浦上千春と佐王子の仲も以前通りになりました。

暇な時間を持て余しているセレブ夫人の多いこのマンションに佐王子が頻繁に出入りするようになった
のです。無事に収まるとは思えません。この章では稀代の竿師、佐王子保とマンションの住人たちが織
なす色模様をできるだけたくさん紹介したいと思います。相変わらず変化に乏しい普通の市民に関する
話題です。ご支援ください。

毎度申し上げて恐縮ですが、読者の皆様のご意見、ご感想は『自由にレスして下さい(その11)』
の読者専用スレにご投稿ださい。多数のご意見を待っています。    

また、文中登場する人物、団体は全てフイクションで実在のものでないことをお断りしておきます。

発表した内容の筋を壊さない程度に、後になって文章に手を加えることがあります。勿論、誤字余脱
字も気がつけば修正しています。記事の文頭と、文末に下記のように修正記号を入れるようにしま
す。修正記号にお気づきの時は、もう一度修正した当該記事を読み直していただけると幸いです。

・(1)2014.5.8 文末にこの記事があれば、この日、この記事に1回目の手を加えたことを示しま
す。
・記事番号1779に修正を加えました。(2)2014.5.8 文頭にこの記事があれば、記事番号1779に二
回目の修正を加えたことを示し、日付は最後の修正日付です。ご面倒でも当該記事を読み直していた
だければ幸いです
                                        ジロー  


[45] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(357)  鶴岡次郎 :2015/08/31 (月) 13:40 ID:EvYe84ZI No.2736

10時ごろまで女はかいがいしく働きました。今まで住んでいた環境とあまりに違い過ぎるため、
最初は軽い戸惑いもあったのですが、体を動かしていると5年前の記憶が蘇ってきました。

部屋の掃除、洗濯、食器類の点検、食器類は5年前のまま手ずかずで残されていました。女の知ら
ない食器が二、三点と箸が一人前分増えていました。どうやら男は新婚家庭用に準備した夫婦セット
の食器類は使用しないで、5年間一人用の食器を別に準備してそれを使用していた様子なのです。
そのことを知り、女はまた涙していました。

四個のスーツケースの中身は衣類やバッグ、靴そして装飾品でした。それまで暮らしてきた身の回
りの品は勿論、高価な家具類まで含めて、女がその気になれば全て持ち出すことが許されていて、
輸送の手続きもやってくれることになっていたのです。それでも、これからの生活を考えて女は4
個のスーツケースに入る物だけを持ち出すことにしました。

それまでの過ごした屋敷には大きな衣裳部屋があり、その中にたくさんの衣類が収まっていました。
中には有名ディザイナーの手になる高価な物や、派手なパーティ衣装もあり、あれもこれも捨てが
たい気持ちで迷いに迷ったのですが、これからの生活を考えて思い切って地味な衣類を選んでスーツ
ケースに詰めたのです。

そっくり残されていた5年前の衣類とスーツケースから出した衣類を並べて比較すると、流行遅れは
致し方ないにしても、今の女の目で見ると、昔の衣類は恐ろしく派手で、とっぴなデザインと色彩の
物ばかりなのです。

「貧乏だったから質が悪いのは仕方ないけれど・・、
どうしてこんなものを着ていたのかしら・・・、
これでは・・、娼婦ですと公言しているようなものだ…、
とても身に着ける気になれない…」

女は口に出して苦笑いしていました。

5年の歳月が女の趣味を大きく変えたようです。街に立つ娼婦のような衣類だと女自身が言う5年前
の衣服に比べて、スーツケースから取り出した衣類は地味な色合いと控えめなディザインですが、全
てが女の美貌と品格をより際立たせる印象的な洗練された衣服なのです。

シャワーを使い、下着を取り換えて、散々迷った末、胸元が上品かつ大胆にカットされた半そでの淡
い茶のワンピースを選びました。ネックレスとイアリングは鈍い光を放つプラチナの小品です。今日
の訪問先のことも考えて、ごく普通の主婦の一寸した外出着のつもりなのですが、際立った美貌が災
いして、女の狙いとは逆に、質素で飾らない装いが女の持つ気高さをより目立たせる結果になってい
るのです。

小さめの茶のバッグを肩にして女は濃い茶皮のローヒール靴を履き表に出ました。8月の太陽はほぼ
真上に来ていて、容赦ない熱線を地上に降り注いでいます。表通りに出た女はそこでタクシーを拾い
ました。5年前であれば最寄り駅まで歩いたものですが、女はそんな習慣を忘れているようです。

10分ほどで目的の大きな私立病院へ着きました。受付でスタッフと一言二言、言葉を交わした女は
三階の外科病棟へ向かいました。通りすがりの男は勿論、ほとんどの人が彼女を見ています。たぐい
まれな美貌とモデルにしたいようなスタイルが人々の視線を引き付けるのです。そんな人々に女は控
えめに挨拶をしながら、目的の病室へ向かいました。


[46] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(358)  鶴岡次郎 :2015/09/01 (火) 14:19 ID:.5v6Syo. No.2737

その患者は特別室に居ました。応接セットを備えたかなり広い病室です。酸素吸入器を付け、全身
を包帯で巻かれた大柄な男が眠っていました。呼吸は正常で、容態は安定している様子です。

「目下のところは安定していますが、今夜から二、三日が山場です・・・。
正直言って、ここへ担ぎ込まれた時は、かなり難しい状態でした・・・。
ここまで持ちこたえられたのは・・・、
患者さんの生きようとする力のおかげだと思います…」

女が要請すると、直ぐに中年の担当医がやってきて、患者の様態を別室で女に説明しています。千
春の美貌に気おされしたのでしょうか、医者は少し緊張気味です。千春の前に香り高いティーが出
されています、これだけ見ても病院側のこの患者とその関係者への対応は丁重だと判ります。

銃と刃物による傷、そして患者の関係者達を見て、並の人たちでないと病院側は判断しているので
すが、それだからと言って、特別に警戒をしたり、怖がっている様子はありません。十分にお金を
使ってくれる上客と考え、それにあわせ丁寧に対応をしているのです。

「大丈夫なのですよね・・、先生・・」

「どんな患者さんに対しても・・・、
絶対大丈夫ですと医者は言えないものです・・。
我々は全力を傾けて対応しております・・・」

「先生・・・、主人を助けて下さい・・、
危険な状態に陥っていた私を救おうとして、
彼は…、酷いけがを負ってしまったのです・・・」

「・・・・・・・」

「もし・・、主人に万一のことがあれば・・、
私が殺したことになります・・・。
私は生きてはいられません・・・」

「・・・・・・・」

「私・・、主人を助けることが出来るのなら・・・、
私で出来ることがあれば・・、何だってやります・・・。
お願いします…、救ってください・・・」

「・・・・・・」

背筋が凍るほど、凄い美人が涙をあふれさせ、必死で懇願しているのです。二十年を超える医者生
活でも、これほど絵になる患者家族の表情を見たことがないのです。任せて下さいと言い切れない
担当医は、彼女の顔に視線を当てたまま凍り付いたようにしていました。

「ああ・・・、先生・・・、
何かおっしゃってください・・・、
そんなに酷いのですか・・、
先生が匙を投げるほどなのですか・・・」

「ああ・・、いえ、いえ・・、
酷いことはひどいのですが、治癒できない傷ではありません・・、
むしろ助かる可能性はかなり高いと思っております・・・。
万全の処置を施しておりますので、安心してください・・・」

医者の言葉を聞いて女は少しホッとした様子です。

「それにしても・・、あなたのような方にそれほど思われて・・・
患者さんは幸せですね・・、うらやましいと思います・・、

ああ・・、いや、いや、余計なことを言いました・・、
とにかく、私に任せてください、最善を尽くします・・・」

「よろしくお願い申します・・・」

千春が深々と頭を下げています。そして、ほんのりと頬を染めているのです。我を忘れて取り乱し
たことを恥じ入っているのですが、その風情がまた医者の心を揺さぶっているのです。


[47] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(359)  鶴岡次郎 :2015/09/02 (水) 11:54 ID:embuvv8A No.2738
一通り患者の様態説明が終わり、女もそれなりに納得しました。担当医として患者家族への説明は
全て終わったのです。それでも、医者は椅子から立ち上がろうとしません。忙しい身であるはずで
すが、もう少し女と会話を楽しむつもりになっているようです。どうやら、看護師がしびれを切ら
して迎えに来るまで、女とこの部屋にいると決めているようです。

「ところで・・、奥様のお名前は・・、
そうですか千春さんと言うのですね…、
それで納得できました・・・、

患者さんが夢うつつで奥様の名前を何度も呼んでいました・・。

夢の中に出て来た奥様に励まされて、頑張ったのですね…、
離れていても、奥様の励ましが彼を元気づけたのだと思います・・、
ここまで、本当によく頑張りました・・・」

医者の優しい言葉を聞いて大粒の涙があふれ出ています。大粒の黒い瞳が濡れて光っているのです、
前髪が数本白い額に掛って揺れています。そっとほほをぬぐう花柄のハンカチが見事に女の表情に
マッチしているのです。医者は仕事を忘れて女の仕草に見惚れています。

「並の患者さんなら・・、あの体で・・、あのような長旅をしたら・・・、
それこそ・・・、大変なことになっていました・・・。

いろいろ事情はあったと思いますが、あの移動は少し無謀でした・・・。

ああ・・・、もしかすると・・、
奥様はあの無謀な移動をご存じなかったのでしょう・・・」

「・・・・」

はじめから疑問に思っていることを医者はストレートに聞いています。親族であれば患者がどんな
にそれを望もうと、死につながりかねない、あのような無謀な移動を認めるはずがないと思ってい
るのです。

周りの関係者がある事情で・・、多分それは組織の利益を左右する事情があって・・、患者を日本
へ運ぶ必要が出て、むりやり患者を移送したと医者は疑っているのです。そうでなければ説明がつ
かないと医者は思っているのです。

「もし・・、人に言えないことで悩んでおられるなら・・・、
私で良かったら・・、話してみませんか・・・、
これでも医者と言う職業柄だとおもいますが、
口は固い方で、言うなと言われれば、殺されも口を開きません・・」

「・・・・・・」

この質問を受けて女はただうつむいて返事に困っている様子を見せています。

「いや・・、これは余計なことでした・・・・」

担当医はしゃべりすぎたことを恥じて慌てて口を閉ざしています。

瀕死の病床で妻の名を呼び続けた夫、夫を救うためなら何でもやり遂げようとする妻、これほど想
いあっているのに、瀕死の夫の入院に妻は立ち会うことが出来なかったのです。そして傷跡の異常
さを考え合わせると、何か深い事情が二人にはありそうだと医者は考えていました。出来ることな
ら、その訳を知り、女の力になりたいと思っているのです。しかし、今は、そこまでは聞き出す時
ではないと思い直しているのです。

ちなみに医者はいまだに独身です。何度か恋をしたことがあったのですが、恋の道より医学の道を
優先したのが災いして、女達は医者の元から離れていったのです。目の前に居る女が幸せになるの
なら、ひと肌脱いでも良いと医者は珍しく熱い思いを抱き始めているのです。男女の心の動きに敏
感な女がこんな医者の感情を察知しないはずがないのです。

「先生・・、お気遣いいただきありがとうございます…
詳しくはお話しできないのですが・・・、
夫が・・、命を懸けて働いてくれたおかげで・・、
私・・・、
今は・・とっても幸せです、ご安心ください・・・」

夫の異常な入院に立ち会うことが出来なかった妻の事情を知ろうと、立ち入った質問をする医者が、
好意以上の感情を持って接してくれていることを敏感に察知して、女は感謝の気持ちを込めて医者
をじっと見つめていました。医者は眩しそうに女の顔を見て、破顔して口を開きました・・。

「そうですか・・、それは良かった・・・、
あなたのような方が苦労するのは見たくないですからね…、

では・・、これで・・・
ああ・・、今眠っていますが、意識はしっかりしていますので・・、
目を覚ましたら顔を見せてあげてください。きっと喜ぶと思います・・」

「ハイ・・・」

話題を変えた医者を見て、女がホッとした表情を浮かべ、軽く頷いています。入院の経緯をそれ以
上追及して欲しくないのです。


[48] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(360)  鶴岡次郎 :2015/09/03 (木) 10:24 ID:z93g1nyQ No.2739

「ああ・・そうだ・・・、
もしご希望なら、今夜、奥様もご一緒に病室で過ごされてはいかがですか・・・・。
ご希望ならベッドと食事を準備させますが・・」

「お願い申します…」

「ああ・・、そうですか、承知しました。
ぜひそうしてやってください・・、患者が喜ぶと思います・・・。
粗末なものですが・・、後ほどベッドを準備させます・・」

その時ドアーをノックして若い看護師が入ってきて、無言で医者をにらみつけているのです。

〈・・ちょっと綺麗な人が来るといつもこうなのだから・・・、
時間ですよ・・、次の仕事が待っていますよ・・・〉

看護師の無言の表情はそう言っているのです。

「ああ・・、判った、判った・・
今すぐ行くよ・・・」

医者はそう言って立ち上がりました。看護師は千春に向かって一礼し、千春もまた頭を下げてい
ます。

〈きれいな方・・・、
先生がなかなか離れない気持ちが判る・・・〉

看護師が医者を見て、意味ある表情を残して先に部屋を出て行きました。

「ああ・・、それと・・、
何かありましたら、私に直接連絡を取ってください・・・
看護師には判るようにしておきますから・・・・」

女が一歩医者に近づきました。今日の訪問先に合わせて香水はつけていないのですが、女自身の体
臭でしょうか、妙なる、ふくよかな香りが医者の鼻孔を刺激していました。

「先生・・、これは些少ですが・・」

かなり厚い紙包みを女が差し出しております。

「イヤ・・、こんなことはされては・・・、
そうですか・・、それでは・・、遠慮なく・・・」

紙包みを白衣のポケットに慣れた仕草で納めています。

「先生・・・、
こんなことを申し上げると・・、
はしたない女と蔑まれるでしょうが・・」

ここで女は次の言葉を飲み込みました。これから言おうとしている言葉を頭の中でチェックして
いるのです。少し上気した表情で、瞳を潤ませ、それでも真剣な表情で、医者に強い視線を当て、
千春は何かを訴えようとしているようです。

「私・・・、
主人のために出来ることは何でもやりたいのです・・
後で後悔したくないのです・・・・」

「・・・・・・・・」

一方医者は・・、女が何を言い出すのか想像がつかない様子で千春をじっと見つめているのです。

「主人を助けていただけるのなら・・、
私を・・・、
私の身体を・・・、自由にしていただいて構いません・・」

「・・・・・・・・・」

一気にこの言葉を吐き出し、女は医者をじっと見つめています。その言葉の意味が分かったはずで
すが、医者は表情を変えないで女を見ているのです。


[49] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(361)  鶴岡次郎 :2015/09/05 (土) 15:18 ID:vXkA9qX. No.2741

「今の私には・・・、
お礼として差し上げることが出来るのはこの体しかないのです・・
私にとって夫の次に大切なものをささげて、お願いしたいのです。
主人をお願いします・・・」

「・・・・・・・・・」

医者はここでもただ黙って、女を見つめているのです。女は当惑していました。医者の反応が判ら
ないのです・・、いえ・・、医者が沈黙している理由は女には良く判っているのです。この作戦を
実行すると決めた時、一番恐れていたことが今起きていると女は悟っているのです。


治癒する可能性は高いと言って医者は千春をほっとさせたのですが、千春はその言葉を鵜のみには
していませんでした。生死の可能性は楽観的に見ても、半分半分だと思っているのです。カギを
握っているのはこの医者で、彼が能力と誠意を尽くして治療にあたってくれることが、夫の命を救
う唯一の道だと思っているのです。お礼のお金をさらに積み上げることも考えたのですが、医者の
立場を考えるとあまり過激な金額は反って彼をしり込みさせることになると思いました。それで、
次の手を考えたのです。

最初の出会いから言葉の端々に見せる医者の優しさ・・、医者が好意以上の感情を寄せていること
を女の感性が察知していました。『夫を助けたい』、『出来ることは何でもする』その強い思いが
後押しして、女の本能が自分の体を差し出す作戦を思いつかせたのです。

着ているシャツが少し汚れていて、ズボンの折り目が通っていない医者の服装、千春を女と見てい
る熱い視線等々、医者が独身か、あるいはあまり妻から大事にされていないと察知して、〈この男
なら・・、この作戦を実行しても、失敗はないだろう・・〉 と女の本能で判断していたのです。
そして、最悪のケースでも、つれなく断られて、恥をかくことはないだろうと踏んでいたのです。


一方、医者は何と答えてよいか、全くアイデアがないのです。頭の中が真っ白になり、何も考えら
れない状態なのです。それでも、女から誘われている事実は医者の男心を大いにくすぐっていて、
嫌な気分ではないのです。

デートの途中、恋人から突然『私を自由にしてもいい・・』と言われても、その恋が真剣であれば
あるほど、男は少し引きます。女を大切に思うからです。まして今日初めて会った女から・・、そ
れも瀕死の傷を負った患者の妻から誘われているのです。酒の席などでこの言葉を聞かされれば、
男なら誰でも戯言の一つも出し、それなりの対応が出来ると思いますが、医者は当惑の気持ちを通
り越して、ただ、ただ、驚いていました。それと同時に、凄まじい女の気迫に圧倒されているので
す。

『私の命を差し上げます・・・』、女がそう言っていると医者は受け止めていたのです。言葉の内
容はこの上なく隠微で、猥雑な誘いの言葉なのですが、そこにはぎりぎりまで追い込まれた女の覚
悟の気持ちがほとばしり出ているのです。

一目見た最初から好意以上の感情を抱いたきれいな女です、そんな女から誘われれば、男の劣情を
刺激されなかったと言えば嘘になります、しかし、浮いた気持ちになることなど到底できなかった
のです。あいまいな言葉を残し、その場から逃げるように去っても良かったのです。しかし、医者
は逃げませんでした。その場に留まり、鋭くも、悲しい女の言葉をしっかり受け止めていたのです。


[50] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(362)  鶴岡次郎 :2015/09/07 (月) 15:51 ID:CaFij5mg No.2742

医者の沈黙を見て、女はその場に居られないほど自身の軽率な言葉を後悔していました。娼婦の
素性を医者に気付かれたと女は思っているのです。一番恐れていた結果なのです、結婚前の一時期
そうした前科があるだけに、かなり動揺しています。

もう少し慎重に考えれば誰でもわかることだったのです。普通の暮らしをしている家庭の主婦がい
かに夫の命を助けるためとはいえ、初めて出会った男に体を差し出すことなど、絶対、起こり得な
いことなのです。そんなことが出来るのは日頃から体を売る商売をしている女に限られるのです。
そのことに千春もようやく気が付いているのです。

「先生・・・、
どうして・・・、何もおっしゃらないのですか・・・、
きっと・・、
こんなことを誰にでも言っている汚い女だと思っているのですね・・」

消え入りそうな声で千春はこれだけの言葉を絞り出し、恥ずかしさに堪えられないのでしょう、視
線を床に落としています。上から見ると彼女の首から肩にかけて、肌が朱色に染まっているのです。

その光景が・・、消えゆくような哀れな女の姿が・・、男の心を揺り動かしています。

夫を助けることだけ考えている女が、冷静な判断が出来ないまま、自身の体を差し出すと言う暴挙
に出たと医者は受け止めていました。愛する人が瀕死の重傷を負った時、人は時としてとんでもな
い言動をするものだと、それまで何度もこうした修羅場を経験している医者は千春の言動を左程異
常なものだととは思っていませんでした。まして、目の前にいる上品な女の素性が娼婦などと思い
もしていなかったのです。

そんなわけですから、女の甘い誘いをむげに断るわけにも・・、かといって、好意を受け入れるわ
けにもいかず、医者はただ黙りつづけるつもりでいたのです。そうすれば、いずれ冷静さを取り戻
し、女が自分から誘いを引っ込めるだろうと思っていたのです。

しかし、どうやら女は自身が娼婦だと思われたと誤解している様子なのです。これは医者の予想外
の出来事でした。哀れな女の姿を見て、このまま黙っているわけには行かないと、医者はようやく
口を開くことにしたのです。

「ああ・・・、いや・・・、決して・・、
汚い女などと思いません・・・。
それどころか、あなたのご主人を思う気持ちに、唯々、感動しているのです・・・。

私にはあなたが女神に見えます・・。
ご主人は幸せ者ですね・・・・
男なら、一度はそれほど、愛する人から想われたいものです・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

医者の言葉を聞き千春は言葉が出ないほど喜んでいました。

〈ああ・・・、よかった・・・・、
先生は私を娼婦と思っていないのだ・・・〉

千春は涙を浮かべて医者を見つめていました。そして、次に千春がとった行動は、おそらく彼女自
身も予定していなかった、本能的な動きだったと思います。

一歩近づき、医者の首に両手をかけて、ゆっくりと朱色の唇を医者の唇に押し付けたのです。医者
はただその場に棒のように立って、彼女の行為を受け入れていました。女はつま先だって背の高い
医者の唇に体を合わせています。彼の手はしっかりと女の腰を支えているのです。

「ベストを尽くすことを約束します・・・。
奥様のためにも・・・・、最善を尽くします・・・
奥様も気を強く持って、旦那様を励ましてください・・・
ここで奥様が倒れたら、元も子もありませんから・・・・」

千春の肩に両手をかけて、医者は女の顔を覗き込むようにそう言って、潔く背を向けて、部屋を出
て行きました。その足取りは軽やかでした。

〈ああ・・、先生・・、
口紅を付けたまま・・・、
でも・・、誰も気が付かないはず・・・〉

医者の背に、深々と頭を下げながら、女はいたずらっぽい笑いをかみ殺していました。全てをやり
つくした満足感が女の表情に現れていました。


[51] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(363)  鶴岡次郎 :2015/09/08 (火) 13:40 ID:zbzx47NI No.2743
神本達6人の勇士は全身に数えきれない傷を負い、あるビルの地下駐車場に居ました。もう数時間
も戦っているのです。

おそらくこのビルの外にはかすかですが銃声音は聞こえているはずです。ビル・オーナーが地元の
名士であり、権力者ですから、誰かが異常音を連絡しても、警察はビルの警務室に連絡をして、異
常がないと言われればそれ以上の介入はしないのだと思います。

既に敵味方共にかなりの負傷者が出ているのです。それでも、鬼神もかくやと思われる神本の超人
的な働きと、強い闘争心に支えられて、神本の達6人全員の戦う意欲は衰えていませんでした。

味方の三倍は居る敵の攻勢に堪えかねた神本達が、背後に壁を背負う背水の陣を敷いて、ここが死
に場所と覚悟を決めた時でした、それまでに圧倒的な攻勢をかけていた敵が、潮が引くように、神
本達の前から消えたのです。

後でわかったことですが、両軍のトップ同士の間で話し合いがつき、敵の軍勢が引き上げたのです。
その後数時間、神本達は古びたビルの片隅で籠城をつづけました。夜明け前、抗争停止の連絡がよ
うやく届いたのです。戦いが終わったと聞かされた時、神本達6人はその場に立っていられないほ
ど疲労困ぱいしていました。

直ぐに負傷者全員その地の病院に担ぎこもれ、輸血や傷の手当てを受けました。その二日後、医者
が止めるのを聞かないで、一番重症な神本だけが4時間の飛行機旅を敢行して日本に戻ってきたの
です。飛行機旅は一等席を数席買い取り、現地の医者と看護師が同行しました。そして、空港から
救急車を飛ばして、都内の有名私立病院に担ぎ込まれたのです。この病院は以前から神本の所属す
る組織が大切にしてきたところで、普通ならかなり問題になる患者の神本を病院側はすんなりと受
け入れたのです。

『日本へ帰りたい』、『死ぬのなら日本の地を踏んでからにしたい・・』と血の叫びをあげる神本
の言葉を組織の幹部は全面的に受け入れたのです。ほんの少し前、神本は組織の中では誰からも顧
みられることがない最下級の組員だったのです、それがこの戦場で、敵味方共に「鬼神」と呼ぶの
を憚らないほどのヒーローに変貌していたのです。

どんな組織でもそうですが、神本の所属する組織では特に、命を懸けた戦いにおけるヒーローの言
葉は絶対と言う伝統があるのです、組織の幹部たちは医者たちを説得して神本が要求した蛮行、日
本への移送をやり遂げたのです。

飛行機旅も、途中のケアーもふんだんに金を使って考えられる限りの手を尽くしました。その甲斐
あって、とにもかくにも、生きて治療を受けられる状態で日本の病院に担ぎ込まれたのです。

現地の医者は勿論、日本の医者も、瀕死の重傷を負った神本の日本移送と言う無謀な要求に眉をひ
そめながらも、献身的に働いてくれました。たぶん、神本の声にならない叫びを受け入れ、たとえ
それが蛮行とも呼べる行為であったにしても、仲間の組織員が結束して必死でやり遂げようとして
いる姿勢と意欲が、医者たちの心を揺り動かしたのかもしれません。


「待ちに待った、五年の年季が明けました・・。
それでも、すんなりと当初の約束が守られたわけではなく・・・、
お定まりのように、いろいろありましたが・・、
最終的には、晴れて・・、千春を取り戻すことができました。

彼女には言いませんでしたが・・、
私はその時密かな誓いを立てました・・・、
彼女にこの命をささげると誓いました・・。
その気持ちは今も変わっていません・・」

千春への熱い気持ちを神本は静かに語っています。大怪我を負い、生死の境をさまよった戦いの話
は山口には話さないと決めている様子で、『いろいろありましたが・・』の言葉で片づけているの
です。もし、本当のことを知ったら、山口の神本に対する気持ちは更に高いものになっていたと思
います。眩しいものを見るような目で山口は神本を見ていました。


[52] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(364)  鶴岡次郎 :2015/09/09 (水) 16:46 ID:DJ/XTMmY No.2744

「千春が戻ってからちょうど一年・・・、
色々とごたごたはありましたが・・・、
私と千春は組を抜けることができました・・・。

堅気で平穏に暮らす・・、
それさえあれば、他に何もいらない・・・
二人の気持ちはその点で一致していました。

ひょんな縁で今の親方と知り合い、拾い上げていただき、
何も聞かないで、私と千春に住まいを与えていただき、
私は親方の店で働かせていただくことになり、今日にいたります・・・・」

静かに話す神本の言葉に山口が何度も、何度も頷いています。

「中学を卒業して直ぐに組織に入りました。そこでの生活しか知りません。そこを抜けた時はどう
生活していいか皆目わかりませんでした。堅気で生活するイロハを親方から教わりました。親方に
は言葉で言い尽くせないほどお世話になりました・・・・、足を向けて眠れない気持ちです・・・」

この場に佐王子本人がいるように神本は深々と頭を下げているのです。畏敬の気持ちをその表情に
浮かべ、山口は神本をじっと見つめていました。

「私はもうじき50になりますが、今が一番幸せな時間だと実感しております・・・」

しみじみと語る神本の気持ちが山口にはなんとなく判るのです。命の危険を感じることのない安穏
な生活のありがたみは、その生活を失った時初めて気が付くのだと、山口は納得していたのです。

「親方のおかげで経済的には彼女を店で働かせる必要はないのですが、時々彼女は東京のソープ店
に出ています。多分、その仕事が好きなのだと思います。そして、店に出ていると、いろいろ誘惑
も多く、色事が好きですから、外で他の男に抱かれることもあります・・。

あなたには申し訳ないのですが・・・、
あなたとの出会いも彼女の好色な遊び心から出来た縁だと思います・・・」

山口が悲しそうな表情を浮かべ軽く頷いています。

「後になって、あなたの気持ちを幸恵さんから知らされて、若いあなたを迷わせたことを千春は本
当に悔やんでいます。あなたの純真な気持ちを結果として弄んだことを千春は本当にすまなかった
と言っています。直接お会いして頭を下げたいと言う彼女を押しとどめたのは私です・・・。

あなたとお会いすれば、千春だって女です、魅力的なあなたを見れば、そんなに強くあなたを拒否
することができなくなるはずです、そうなれば、あなたを余計に苦しめることになると思ったから
です。

私からも謝ります・・・。千春を許してやってください・・」

話を終えた神本が山口を真正面から見つめて、そして深々と頭を下げました。感情が高まり、涙が
溢れそうになるのをかろうじて抑え込み、山口もまた深々と頭を下げていました。完璧なまでの敗
北感で山口は押しつぶされそうになっていたのです。

〈千春さんを愛する気持ちでは決して負けていない・・、
しかし・・、地獄の苦しみの中を生き抜いた二人だ…、
僕など入る隙間は、彼らの仲には存在しないのだ・・・・
彼らの間には不滅の絆が存在するのだ・・・〉

これほど強い絆で結ばれた男と女の関係を山口は他に知りません。その中に割って入るのはほぼ絶
望的だと感じ取っていたのです。彼女を奪い取る自信が・・、彼女と暮らす楽しい夢が・・、彼の
中で音を立てて崩れていくのを、山口はじっと見つめているのです。


[53] フォレストサイドハウスの住人達(その11)(365)  鶴岡次郎 :2015/09/10 (木) 15:34 ID:wxS83My2 No.2745

神本が・・、多分本人はそのつもりはなかったと思いますが、止めの刃を山口の胸に深々と差し込
みました。

「千春は私の命そのものです・・。
今こうして曲りなりに生活できているのは全て彼女のおかげです・・、
おそらく彼女なしではこの先、私は一瞬たりとも生きてゆけないと思います・・・、

だからと言って、無理やり彼女を私に縛り付けておくつもりはありません・・
彼女が去ると言えば、私は黙って頷くだけです・・、
多分・・、その後・・、私は一人静かに命を絶つと思います・・・・」

「・・・・・・・・・」

驚くべき覚悟を、一つ間違えば戯事ともとられかねない覚悟を、何事もないように平然と妻の浮気
相手である若い山口に語っているのです。驚きの表情を隠さないで山口は神本を見つめていました。

〈千春を奪うなら・・、
俺を殺してからにしろ・・・〉 

言外にそう言っている・・・と、山口は受け止めていたのです。凄まじい殺気さえ山口は感じ取って
いたのです。

恐ろしく時代がかった、こっけいにも取れる言葉ですが、聞いている山口には彼の言葉が不自然に
は思えないのです。千春に心底惚れている山口だからこそ、千春を神だと讃え、千春は自分の命そ
のものだと、語る神本の気持ちが良く判り、千春との別れは、それは自身の死を意味すると言う神
本の言葉をその言葉どおり受け入れることが出来たのです。完全な敗北を山口は噛みしめていまし
た。

「長い話になりましたが・・、
どうでしょう・・、山口さん・・・、
千春のことはあきらめて、許していただけますか・・・・」

「こちらこそ、ご迷惑をかけました・・・。
人には話せないお二人の秘密までお聞かせいただきありがとうございました。
これから先、このことでご迷惑をおかけすることは絶対ないと思います・・。
何時か・・、お二人のような結婚が出来ればと思っています・・。
それでは・・、これで失礼します…」

山口が立ち上がり、一礼して、大股で店を出て行きました。一度も振り返ることなく・・・。

それ以降、山口は幸恵の店にも、アパートにも顔を出さなくなりました。『俺の女に手を出すな』
と、少し凄みを聞かせたと神本は幸恵に報告したそうです。

勿論、山口が口を開かない限り、二人の男が喫茶店で対決した真相は誰も知らないのです。そして、
おそらく、山口に語った神本の話・・、妻が突然消えて以来5年間、神本は千春への愛を貫き通し
たこと・・、そして、妻もまた、夫のひたむきな愛に応えて、5年後には夫の元へ戻ってきたこと、
こうした事実を山口以外、誰にも話したことがないと言う神本の話に嘘はないと思います。そして
おそらく、これから先、神本が夫婦の話を人に話すことはないと思います。人妻に真剣にほれ込ん
だ山口のひたむきな気持ちに報いるため、山口は重い口を開いたのです。

神本の話を聞いて、互いに信じあう男と女には怖いものは何も無い、真剣に惚れると言うことはど
んな時でも相手を信じることが出来ると言うことだと、山口は確信できたと思います。これから先、
山口は神本とその妻の深い絆を事あるごとに思い出すでしょう、その思い出のストリーが山口の心
を和ませ、勇気づけることになると思います。


[54] 新しい章へ移ります  鶴岡次郎 :2015/09/11 (金) 14:16 ID:UJ4zW1Bo No.2746
新スレを立て、新しい章へ移ります。ジロー


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